うさぎの穴から月をつくる

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私は月を作りたくなっているのです。

私が何者かというと、いわゆるグリーフサバイバー/自死遺族です。行なっていることはグリーフワーク/喪の作業でして、その中で美術に興味を持ったものの、基本的に不器用であり、造形的な感覚も修練経験も制作意欲も持ち合わせておらず、このような形で展覧会で場所をもらうことは場違いのようにも思います。しかし、機会をもらったことにとても感謝しています。寒い時期のこの街がもともと苦手でしたが、ここ数回はフラッシュバックなどもあってなかなか辛いです。

月の兎の話をご存知でしょうか。

「兎と他の動物達が空腹な旅人に出会った。他の動物が自らの得意な方法で獲物を取って旅人に与える中、何の取り柄もない兎は自ら火の中に身を投げ、その身を旅人に与えた。その旅人は実は神様で、兎の自己犠牲と慈悲心を伝えるために兎を月に昇らせた。」だいたい、そんな話です。仏教説話と民話がミックスされてなんとなく、伝わっているものを、なんとなく、私も知っています。

元恋人が自殺をしました。彼女がいつも自分の近くに置いていた「うさぎくん」のぬいぐるみが手元に残りました。彼女の死はまるで兎の話の一部のようです。プレゼンスを高めて、自らが生き残ることを考えるしか選択肢の無いような街の人々の中で、彼女の慈悲心は不調をきたしてしまったようでした。自己犠牲の精神が人々に食い物にされてしまったのでしょうか。それとも古い説話のように生まれ変わることを当然と思って、現世に見切りをつけたのでしょうか。

最近でも、住んでいる場所の近くでも、その身を火の中に投げ出す兎がいます。そしてほとんど誰にも一匹ずつの兎は知られていない。そんな兎は、どうなるのでしょうか。来年あたりそんな兎達の霊が水辺からやってきて東京を滅ぼすのも、正しいことじゃないか、などと想像することがあります。でもそれってちょっとよくない想像ですよね、多分。

死者のためのイメージは時代によって変わっていきます。共同体による想像力が働いていれば、儀式と合わせて制作される。しかし、その想像力とのつながりが実感されていなければ、形式的な象徴にしかなりません。私にとってはお墓がそうですし、月の兎の説話も、生まれ変わることもそうです。

遺品は、直接の知り合いであった個人にとっては記憶の中で故人を再生する装置となりますが、それは他者と交換ができず、したがって意味が発生しません。例えば、うさぎくん「達」を扱えない。「達」を扱えないというのが、水辺からやってくる悪霊の想像を生み出しているように感じます。結局、元恋人の自殺を月の兎の物語に結びつけるのも、たまたま知っている話を使って彼女を象徴にしてしまうことになります。そんな象徴化の仕方では、イメージとしても死んでしまうので、そんなのは嫌です。

今年の冬の衣替えで、面白いことがありました。彼女の遺品のカーペットを持っています。亡くなって部屋を引き払う最後の日、遺族の遺品整理からも拾われず捨てられることになっていたカーペット達の模様に、呼びかけられたようで、予定外に持ち帰ることにしたのでした。衣替えで売るか捨てるかしようとしてピックアップした、着なくなった洋服が、彼女と心が離れてしまったと感じた頃に買ったものだと気が付きました。そして、その洋服の色合いが、遺品のカーペットの色合いに似ていたのでした。

カーペットも洋服も、消費社会での選択でしかありませんが、それくらいのことが最もリアリティを持っている、そんな慣習の中にいた二人でした。その中にも、意識や記憶の外で、時系列も飛び越えて、新たな関係を発見することができる。これは霊的な現象や死後の世界を信じることよりも、よほどしっくりきます。今後また新しい関係が結ばれる瞬間が来るのがいつになるかわかりませんが、待つのは悪くないと思います。

さて、はじめに書いたとおり、私は月をつくりたくなっています。体にたまたま持っている兎の物語を、新たな実感を持った関係性に結びつけるためです。月は、小惑星が衝突した地球の一部がバラバラになって舞い上がり、再度集まってできたと言われています。うさぎくん達が居なくなった穴で作るものが私の月になります。それは私以外月に見えないかもしれません(もんじゃ焼きを食べすぎて吐いたように見えるかもしれません)が、死んだイメージからずれ続けさせるためには仕方なく、またうさぎくん「達」との関係を結びたいからです。兎の肉を使った月は食べてしまいました。自己犠牲の精神を、食い物にしている身でもあることの、確認です。