カルペディエムの沼
カルペディエムの沼には一輪の花が咲いていた。
花弁に手を触れると、誰かの思念が流れ込んでくる。それは沼に堆積した幾つもの残骸、それらに残された記憶の断片のようだった。反復される日常からの逸脱、記憶と忘却、永劫回帰。時代を象徴し、警鐘を鳴らすもの。死に対する弔い、曖昧さ回避、不老不死。私の日課はいつしか、誰かの記憶を覗き見ることになっていた。
人形とパンが不思議なラジオ体操を踊っている。縫い目、常在菌の自然発酵、振付はどれも異なるパターンの集積から作られているが、その反復から逸脱するもの。それらの邂逅こそが介護という時間を、美味しく味付けしてくれる。走馬燈とそこから染み出した付喪神。それらは日常における反復の記憶と忘却の量を反比例させるかのように物質化する。掃除夫は破壊され尽くした後の世界で、無目的に清掃業務を反復する。ここではルサンチマンとプライドが、埃として舞い散りながら永劫回帰している。
日本という島国にはかつて、令和という時代が存在していたようだ。それは「SFの時代」と呼ばれていたらしい。科学を元にしたテクノロジーが生活の基盤となった華々しい表の世界、その裏で人が人であることによって引き起こされ続ける現実の諸問題。「SFの時代」とはそれらの諸問題が、尽くSF的な想像力により生み出されたかのようであったことに由来している。天皇の表象と台風被害による原木によって構成されたクライシスツリーは、令和という時代を象徴するとともに警鐘を鳴らし続ける。
死の記憶が押し寄せる。遺品と料理による弔い。うさぎくんという亡霊は、時には遺品を元にしたコラージュとして、時には血肉を伴った料理として立ち現れる。その時、流し台という命が往来する生活空間は、弔いの空間としての機能を露わにすることになる。密室空間における脳死判定。倫理や法律や職能では引くことができない生と死の境界線を引くこと。その曖昧さ回避によって明らかになる罪と暴力を引き受け、再び独自の判断基準において決断し直すことは人にしかできない。不老不死者の髑髏。その原因不明の死によって残された遺品たちは、ヴァニタスと化してもなお生き続けることの意味を喚起する。
カルペディエムとは、「その日を摘め」という意味のラテン語だ。これはメメントモリ(死を想え)と似たような意味を持つ言葉だが、メメントモリが死の方向を向いているとすると、カルペディエムは生の方向を向いている。生が過剰に形を変えて反復し続け、死という点の線引きが困難となった時代において、「その日を摘む」ことはいかにして可能なのか。現実の世界がSFを擬態するのであれば、それを乗り越えるのもまた実存に根差したSF的な想像力に他ならない。花弁に宿る記憶の断片たちを辿りながら、そんなことを頭に思い浮かべていた。
私はカルペディエムの沼に咲く一輪の花を摘むことにした。花弁に宿る記憶が再生されることはもうないだろう。帰路に就く途中、私は何だか古いSF小説を読んだような気分になっていた。
NIL
参加作家
Anrealms (NIL x J) BeBe F・貴志 TMTMTR 酒井陽祐 濱中大作 山﨑千尋